2017年3月10日金曜日

第171回 「私の医師人生」

医師になってから約40年になった。

最初の11年は、長野県の諏訪中央病院を除き、東京の都立墨東病院、東京大学医学部附属病院、日赤医療センター、都立豊島病院という大きな病院勤務であった。いずれも、その後の勤務とは異なり、研修であった。半年の都立墨東病院勤務のあと、東京大学医学部附属病院に回った。

最初のOben(指導医)は、寺岡理事長先生と同期の永宗先生であった。
ある時、夜中まで続いた手術が終わると、意識のない患者さんが入院していた。家族ももう帰られたあと、当然明朝のカンファランスにプレゼンしなければならない。次の日の夜中に、その患者さんの呼吸が止まりそうになった。水頭症があることだけはわかっていたが、手術場に運んでいる暇はなく、その場でピンク針を用い頭蓋骨に穴を開け、ベニューラ針を脳室に挿入し、ことなきを得た。
永宗先生には事後に報告をした。こんなことが、うちのグループに続き、永宗先生も疲れていたようであった。永宗先生との午後回診の時、

「電解質は?」

と聞かれ、

「まだ見ていません。」

と答えると、

「ここは市中病院とは違うんだよ!!」

と怒られ、しばらくは口もきいてくれず、手術も見ているだけであった。
当然最低の評価と思っていたが、2年くらいしてであろうか、他の先生から

「永宗先生が、渡辺は優秀だったよ。」

と言われていたと聞いて、多少安堵した。

東京大学医学部附属病院で3年間研究をしてから、当時の高倉公朋教授の推薦で、鳥取大学に転勤した。
講師という話であったが、助教授の先生が東京へ帰られ、助教授にしていただいた。
私の下には、専門医はいない状態で、ほとんどすべての手術に入っていた。
夜は、当時はまだ使用できた犬を用いたくも膜下出血後の脳血管攣縮の成因に関する研究をしていた。犬の実験では、毎年講義した学生さん等が手伝ってくれ、その学生さんたちは、脳神経外科の教室に入局してくれた。もちろん、学生さんの講義、クリクラ(クリニカル・クラークシップの略:参加型臨床実習)の学生さんの指導もしなければならなかった。当然、医師の指導、臨床の方が主たる仕事であったが。そのころの学生さんたちは、夜中まで教室でレポートを書き、その内容も良くできていた。1999年に教授になってからも、その傾向は続いた。
しかし、ゆとり世代の学生さんが入ってきて、さらに新たな研修医制度が導入されると、その流れは一変した。5時になると手術中でも帰ってしまう、レポートを書かせても小学生程度、試験でも以前は60点を取れない学生さんは50%くらいであったが、同じ程度の試験でありながら、60点以上を とる学生さんは0%。あらゆる面で先が思いやられる状況である。その学生さんたちが医師になっても、「腫瘍の位置を間違わないように開頭しなさい。」と言っても、腫瘍は開頭範囲になく、5cm以上はなれたところにあったり、私の言うことが守れない医師がいたり、あまりにもおろかで幼い医師が育ってしまった。このような医師に言うべき言葉はなく、矯正のしようがない。あと10年もたつと、このような医師が、医療の中心になり、日本の医療レベルはかならず低下する。

寺岡記念病院に赴任し、串原先生のようによく勉強し、よく働く医師が居て少し安心した。自分の生活を考えずに、患者さん、医療、病院に奉仕する。

「脳外科は、救急車を断らないことにします。」も彼が居なくてはできないことであった。このような医師は育ててあげようと思うし、問題があれば指摘するし、手術も指導してあげようと考えている。

医師の善意により保たれていた今までの日本の医療も転換期にきている。ただし、この転換期は医療だけの問題ではなく、日本社会全体の問題でもある。厚労省は自らが犯した医療行政改悪を顧みず、文科省とともに医師の数を増やす方向に舵をきり、結果としてできの悪い医師を増やしている。このことは、医師だけに限らず、看護師、リハスタッフ、技師、事務職員などすべての業種でも同じはずである。日本全体をみても、群馬大学のある術者の手術死亡が突出していても大学は野放し状態、東京女子医大のプロポフォール不正使用による多数の死亡例、信じられないことが起きていても、チェック機能が効かない体制となっている。

今後の医療ひいては日本の社会全体は、憂うる状態である。何らかのbreak throughが必要であろうし、期待したい。

せめて、この寺岡記念病院に身を置くものにとって、地域の人たちから信頼され、

「寺岡記念病院はいい病院だ。」

と、言われるよう努力しよう。 

脳神経疾患治療センター長 渡辺 

2017年3月7日火曜日

第170回「旅行」

僕の趣味は旅行です。

この趣味、結構お金かかります。節約してお金を貯め、旅行で散財します。国内外問わず、いろんな所に行きました。いろんな思い出ありますが、特に印象深かったものをご紹介します。


タイでの出来事
現地で仲良くなった方の誕生日パーティに誘われ、即興で唄を歌わされました。頭に浮かんだものはSMAPの「世界に一つだけの花」、それをアカペラで振り付きで歌いました。旅の恥はかき捨てですね。


ケニアでの出来事
マサイ・マラでマサイ族の方とお話し、槍の投げ方など教わりました。でも、彼ら意外とデジタルなんです。ポケットの中から携帯電話を取り出された時は、目が点になってしまいました。


東日本大震災後の東北
2011年の東日本大震災後、何度か東北を訪れました。興味深かったのは、訪れる町によって復興度合いが違うことです。ある町ではどんどん新しい道路や家が出来上がっているのですが、他の町では瓦礫の山が至る所に残っています。なぜこんな差ができるのでしょうか???


僕の夢は世界制覇!!は無理でしょうけど、全国制覇!!はしたいですね。

九州・沖縄・四国・東北地方はすべて旅行しました。近畿地方も残るは滋賀県のみ。まだまだ先は長いですが、夢に向かってゆっくり楽しみたいです。

放射線室 岩本